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玉水燃料店変遷と想い 祖父、小次郎による戦後の日本復興。 父、貞道による貢献 時代の大きな転換。 不安が不安を呼ぶ中、仕事に向かう日々・・・。 私の重大な決意と、2011年3月11日 ガスも、電力も、人も エネルギーなんだ!。 次の世代へ向かって、原子力に依存しないエネルギーを。 理想の実現に向けた、私の戦い。
はじまり、玉水燃料店のスピリット

玉水燃料店のスピリット。

炭屋玉水が産声をあげたのは、昭和8年まで遡ります。私から見ると、曾祖父にあたる玉水小一郎が家屋の軒先で炭を近所の人に販売したのが始まりです。

ただ、スピリット(精神)という側面から見てみると、小一郎の父、私から見ると高祖父にあたる玉水綱吉が暮らしを今よりも良くするために村人数人と共にアメリカへ出稼ぎに渡った開拓者精神が現在も脈々と受け継がれ、もしかすると、そのスピリットは、時を超えて無意識のうちに私の心の中にも息づいているのかもしれません。

そうして始まった炭屋玉水は、第二次世界大戦の混乱の中、一時中断を余儀なくされながら戦争帰りの祖父、玉水小次郎が昭和30年頃から炭や割り木や練炭豆炭を販売する燃料商として再び商いを開始しました。現在の姿の玉水燃料店へ直結する流れは、この時点から始まっています。

ガスの時代の到来。

玉水小次郎が、父小一郎の助言を受け再び始めた薪炭販売が、戦後日本が脇目も振らず復興に邁進し、豊かさを求めてさらなる発展を始めた昭和30年代に、燃料商として総合的に燃料を取り扱う玉水燃料店として創業。

高度経済成長とともに地方での燃料も薪炭が主流だった時代からガスの時代へ移り変わり、玉水燃料店でも昭和39年からプロパンガスの販売を開始します。

祖父、小次郎による戦後の日本復興
父、貞道による貢献

地域になくてはならないお店の実現。

家庭用燃料は、その後安価な灯油が市場に出回るようになり、昭和43年、主力であるプロパンガス・練炭豆炭の配達とともに灯油の配達も始めます。ガスや灯油が普及期だったこともあり、それに伴う設備工事取り扱いも開始。
昭和53年、敷地内に灯油専用地下埋設タンクスタンドを設置し、油市場の普及拡大に合わせて本格的に灯油の配達を開始。
昭和56年、父玉水貞道が事業を承継し、プロパンガスの保安の高度化に伴う各種安全機器の普及促進、重量販売主体からメーター販売(体積販売)主体へと移行、ストーブや生活必需品・台所用品の取り扱いなど、燃料以外の物販販売も拡大していきます。

昭和50年代から60年代は、周囲に大型ホームセンターも多くなく、家庭の生活に関わる商品は何でも玉水燃料店で、という地域になくてはならないお店になっていきます。他の業種と同じく、ある意味良い時代を邁進することができた時代でした。そうして、時代は、バブル景気へと突入していきます。

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SANYO

逆風の中、私は家業に入りました。

バブル景気真っ只中の1989年(昭和64年)1月8日、時代は平成へかわり、その数年後、日本のバブル景気が終焉を迎えます。日本は、それから20年を超える低成長時代へと突入しました。
また、それまで台所の主役だったガスコンロが、IHクッキングヒーターの普及と共に徐々に電化。そして、給湯も電力へと家のエネルギーが全て電力となるオール電化住宅が市場に普及しだした2002年(平成14年)に私は家業に入ることとなりました。

家庭用エネルギーは、ガスが主役だった時代に終わりを告げ、給湯分野も含めガス・灯油・電力(電気)と様々なエネルギー選択肢の中から選ぶ時代へと移り変わりました。

特に電力会社主導によるオール電化PRによる電力(電気)普及は激しく、年間数パーセントの割合で大切なお客様宅からガスがなくなり、次々と電化へエネルギー転換。顧客数は平成14年をピークに、その後数年間で2割近く激減。日本の経済状況の低迷も追い打ちをかけ、公的機関を中心にさらにエネルギー価格の経済性や合理化を最優先とする流れの中での価格競争、一般エネルギー消費の縮小が進んでいきます。

一方、海外からの輸入に頼るガスエネルギーは、中国やインドなどの後進国の急速な経済成長とともに日本以外での需要が増大し、輸入単価が年々値上がりました。

時代の大きな転換。ガスが主役だった時代に終わりを告げ、エネルギーを選ぶ時代へ。
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不安が不安を呼ぶ中、仕事に向かう日々・・・。

先の見えない、読めない不安感。

消費市場側とガス供給市場側の狭間に立たされ、板挟みになりながら闇雲に日々の仕事をこなす毎日が続きました。勝ち組・負け組・生き残りをかけた・小さいながらも頑張る会社等々、この時期様々な言葉が世間を飛び交いましたが、私自身も先の見えない、読めない不安感を内に抱えながら現状を維持することのみを最優先に仕事をしていました。

明日は、電化によるガスの撤去はないだろうか。

中東で戦争やテロが起こり、ガス価格が跳ね上がらないだろうか。

顧客数の減少により、他の同業者が荒手で顧客を奪いに来ないだろうか。

明日は、来月は、来年は、果たして現状のような仕事ができているだろうか。

不安は不安を呼び込み、負の連鎖を形成しながらそれでも仕事に向かう日々が続きました。

私の重大な決断と、2011年3月11日

電化住宅の普及が勢いを増す中の2010年(平成20年)、当店でもオール電化機器を取り扱うことを具体的に視野に入れ、販売するための商品知識や仕入れ先の確保、電力会社との連携を始め出しました。

今までガス専門として自他共に地域の皆様に認め、信頼していただき歩んできた玉水燃料店でした。ガス専門店が次のエネルギーとしてのオール電化商品を取り扱うことは、私の内側では違和感が残り、全力で進めない何かを抱えながら決心した選択でした。


「お客様のニーズやウォンツがそこにあるならば」


そう自身に言い聞かせて最後は決断しました。

事務所の展示スペースへ電化商品の展示も終わり、販売チラシの打ち合わせや、さらなる商品知識の向上にオール電化セミナー講座等を熱心に受講していた頃、突然にそれは起こりました。

私の重大な決断。

2011年3月11日14時46分、東北地方太平洋側を震源とするマグニチュード9の日本観測史上最大の大地震が起こりました。 2011年3月11日
何か情報を得ようと急ぎテレビをつけたその時、目に飛び込んできた映像は、津波が仙台空港滑走路を飲み込んでいく場面でした。

次々とショットは切り替わり、津波にのみ込まれる家や町を高台から無情に映し出す映像。

すぐそこに迫っている津波の先端から逃げようと右往左往する車や自転車。高い建物の屋上に避難してはいるが、その周り全てが津波による海水で陸の孤島状態になっている人々。

高台や山の中腹、丘の上へ辛うじて避難してきた人々が眼下に広がる津波の惨状に、ただただ呆然とする老人の映像や、逃げろと泣き叫ぶ大人の声、子供の声、人々の声。

安堵で泣く声。
津波で破壊された家屋がきしむ音。
夜になると、海岸近くにあるオイルの備蓄タンクが炎上する赤い炎。
そして、誰もが安全だと過信していた原子力発電所の損壊、爆発。
私は、画面を通して飛び込んでくる惨状に、ただただ呆然とする他ありませんでした。

やがて、それは怒りの感情へと昇華していきます。

何に怒っているのか、惨いことをする地震になのか、自然に対してなのか、何もできない自分自身になのか、それは今でもわかりません。
けれど、確かにあの時何かに怒っていました。そんな中、被災地に微力でも何かができればと考え、地元のまちづくり団体や業界団体を通して支援活動にはげみながら一年後、何とか復旧を進めている宮城・福島両県へボランティアスタッフとして赴きました。

現地は、山のように積まれた瓦礫がそこかしこに残っており、津波で半壊したというよりは、「えぐりとられた」住宅、焼け野原のように無くなってしまった町や村をこの目で見てきました。予想はしていましたが、それでも想像を超えた光景になすすべも無かったことを覚えています。

ガスも、電力も、人もエネルギーなんだ!

この震災で私が心から実感したこと

この震災で私が心から実感したことは、人間は一人では生きて行けないという当たり前のことを改めて実感しました。

自分以外の誰かという一人はもちろんのこと、それまでの生活の中で当たり前に周囲にあふれていたモノ、当たり前のように使っていたガス・電気・水道。全ては、自分以外のモノであり、どれが無くなっても困るモノ。そして、私が今まで特に気にかける事も無く仕事として扱っていたエネルギーにおいては、被災地の方々の生死を分けるに値する非常に重要でかけがえのないものだということに恥ずかしながら気づかされました。

ガスエネルギーの重要性、電力エネルギーの重要性、生きている人々のエネルギーの重要性、全てのエネルギーの重要性と必然性。どれが無くなっても、決して生きてはいけない。ガスも電力も人もエネルギーなのだと感じました。

エネルギーは人々の生活を快適で豊かなものとし、当たり前になくてはならないものなのだと。

この、当たり前にあるということは、すごく大切なことで、すごく恵まれていて、すごく幸せなことで、明日に向かう勇気を与えてくれるものなのだと、ようやく気づくことができました。そして、そういうものを半世紀以上にわたり、お客様へ提供し、また、そのおかげで今があることに、初めて心から感謝することができました。

太陽光発電所の実現へ向かって

エネルギーの大切さを実感することとなった東日本大震災の年の初夏、原子力にも依存しないエネルギーの選択肢の一つとして、それまで家庭用として日本で徐々に普及していた太陽光パネル発電をエネルギー発電事業(産業用)としてお客様へ提供できないかと言うことを真剣に考えていました。

経済性等を懸案し、個人所有の農地である程度の枚数のパネルを敷き詰められれば小規模でも発電所として機能することができ、電力エネルギーをお客様へ提供できる。じっくりと構想を練り、政府が太陽光発電を筆頭とする再生可能なエネルギーを力強く推進していく方針を示し、新たな制度改革を行うことを決定したことも自身を後押し、翌年2012年が明けると同時に一も二もなく太陽光発電所の実現へ向かって走り出しました。

次の世代へ向かって、原子力に依存しないエネルギーを。
ガスも、電力も、人もエネルギーなんだ!

この震災で私が心から実感したこと

農地をエネルギー目的で使用するなど前例がなく、仮に実現できたとしても恐らく私の住んでいる地域では初事例になるだろうことは想像できました。ゆえに、順当には進められないことも予想できました。
農地を農業利用からその他利用へ転用しないといけないということで関係各所へその手続きから始めましたが、いずれも前例が無いとのことで認められないと門前払いが続きました。あまりにも関係各所で前例無しの一点張りで、膠着状態が続き、それらの逆風に負けてあきらめそうになった時期もありました。

しかし、自分とエネルギーを信じ、粘り強く、太陽光発電所やエネルギーの重要性を窓口で担当者へ語り続けました。同時に、建設に関わる予算を融資してもらうための融資先との交渉も進めました。ただ、こちらも前例が無いということで地元金融機関は難色を示しました。こちらも、粘り強く交渉を重ねました。

そうしながら関係各所を説得し、一つずつ理解をしてもらい、協力を得ながら2013年4月16日、農地の転用では市内初許可・初事例の玉水燃料店による太陽光発電所が稼働をはじめ、電力エネルギーがご家庭に届けられるようになりました。

エネルギーの大切さを実感してから太陽光発電による電力エネルギー発電事業の実現まで、実に1年と10ヶ月を費やし完成した瞬間でした。たった一人で何も前例の無かった農地転用型太陽光発電所(産業用)は、一人、また一人とやがては多くの人々を巻き込み、最終的には大きな人のエネルギーによって実現しました。

ガスエネルギー、そして、電力エネルギーの供給開始という二つのエネルギー供給がお客様へ開始できたこと。そして、それらはかけがえのない人のエネルギーの結集により実現できたという事実は、次の時代へ向かおうとする玉水燃料店にとって大きな一歩となりました。

太陽光発電所
皆様に感謝

2014年、玉水燃料店は株式会社へ組織変更し新たなステージへ歩み出しました。ガス・電力・人のエネルギーを結集させ、今日よりも、少しだけいい明日を積み重ねながら玉水燃料店はお客様みなさまと共に着実に歩み続けていきます。これからも、よろしくお願いいたします。最後になりましたが、全てのみなさまに心から感謝いたします。